2025/11/30 待降節第1主日  「すべての人の光」

イザヤ51:1-11、
マルコ13:24-31、
フィリピ2:6-11
讃美歌 Ⅱ96

わたしの民よ、心してわたしに聞け。
わたしは瞬く間に
わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。
わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ
わたしの腕は諸国の民を裁く。
(イザヤ51:4、5)

Ⅰ.ユダヤのベツレヘムの古今

メシアの到来を待つアドベントの季節になり、天上の響きを奏でるクリスマスソングに気分は高揚します。2000年前、ユダヤのベツレヘムで主イエスが誕生した時、神の民イスラエルはローマの支配下にありましたが、ルカはこの高揚感を羊飼いたちのクリスマスで描きました(2章)。そのユダヤの地で今、聞こえてくるのは、どこにも逃れるすべのない暗闇を生きるパレスチナ人の嘆きです。私は、今、ユダヤの地を覆う嘆きは、主イエスが神の国の福音を宣べ伝えた時に端を発していると考えます。イザヤは、国家が滅ばされる闇の中に輝く光がある、と預言しました。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた!」(イザヤ9:1)と。イザヤが預言したこの光こそ、イエス・キリストです。ところが、ユダヤ人たちは(ヨハネ福音書)、つまり律法学者やファリサイ派の人々(共観福音書)は闇の中を歩む民の大いなる光、イエス・キリストを迫害し、殺したのです。今、彼の地を覆う闇は、主イエスを信じない者たちが吐き出す闇ではないのか。
先ほどお読みいただいたマルコ福音書には、終わりの日に、この闇から輝き出る光について語られていました。_それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来られるのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集められる!_
きょう、私たちに開かれたイザヤ書51章が語るのもこの光です。「主に贖われた人々は帰って来て、喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき、喜びと楽しみを得、嘆きと悲しみは消え去る」(11)のです。
「嘆きと悲しみが消え去る」「とこしえの喜びと楽しみ」がキリストの誕生において実現したのです。アブラハム以来、神の民イスラエルは、いかなる約束も無にすることなく、神の成就の可能性にいかなる限界もつけず、測りしれないものへと成長させ、約束を未成就のまま来たるべき世代に伝え、神の負債として加算したのです。神はその膨大に加算された負債を、御子イエス・キリストにおいて支払われたのです。
イエス・キリストは歴史になる神の言葉の頂点なのです! この歴史になる神の言葉を極限まで、つまり神的次元にまで拡大したのが、第二イザヤ(40−55章)であり、同じ時代を生きた申命記的歴史家です。
申命記的歴史家は、ヨシュアの土地取得から始めて、士師の時代を経て、ダビデの統一王国時代、そしてソロモン亡き後の南北王国の分裂と滅亡を、預言者が語った歴史となる神の言葉を援用して、過ぎ去った歴史に結びつけ、それを神が形成した歴史として解釈したのです。ちなみに、この両者が拠って立つ土台は最古の信仰告白(申命記26章)です。
「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人(ヤコブ)であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留した。時を経て、数が増し、大いなる国民になると、エジプト人はわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課した。先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられた」という告白です。

Ⅱ.無から有を呼び出す神

千年におよぶ旧約聖書全巻はこの信仰告白の上に成り立っています。イザヤ書51章にはそれが次のように語られています。「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、主の御腕よ。奮い立て、代々とこしえに。遠い昔の日々のように。ラハブを切り裂き、竜を貫いたのはあなたではなかったか(創造神話)。海を、大いなる淵の水を、干上がらせ、深い海の底に道を開いて贖われた人々を通らせたのは、あなたではなかったか(救済史)」(9−10)。 ちなみに、創造神話とエジプトからの救いを回顧するこの言葉は、「あなたではなかったか」と繰り返される修辞疑問文から明らかなように、この時イスラエルの民は神への信仰を失っていたのです。「主は良いことも、悪いこともしない」(ゼパニヤ1:12)と。
同じ主旨の言葉が十字架のキリストにも向けられました。十字架の前を通り過ぎる人々は、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。イスラエルの王キリストよ、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう」(マルコ15:31−32)と嘲笑したのです。世の人々にとって十字架は、ご利益のない神の象徴なのです。キリストの十字架は、神の無作意なのか。そのことを思い巡らしていた時、ユダヤ系フランス人、 シモーヌ・ヴェイユがナチス・ドイツの手を逃れ、亡命先アメリカで書き記した言葉の一節が思い出されました。それは、「不幸な人々に対して、神の御国について語らないこと。その人たちに取って、神の御国なんて、あまりに縁遠いものであるから。ただ、十字架についてだけ語ること。神が苦しんだのだ」という言葉です。
人は皆、苦しみも悲しみも痛苦もない世界、それが神の国であると考えます。しかし逆説的ですが、シモーヌ・ヴェイユは、そして聖書は、「神の国」は十字架にあると語るのです(ルカ24:25)。それを誰の目にも見える仕方で描いたのがマタイです。マタイは、主イエスが十字架上で叫び、そして死んだ時、「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」(27:51−52)と証言したのです。旧新約聖書は一貫して、キリストの十字架が神の国であると語るのです。
イザヤ書51章はそれを次のように語ります。「わたしに聞け、正しさを求める人、主を尋ね求める人よ。あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ。あなたたちの父アブラハム、あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした」と。アブラハムとサラは、子供を産む可能性のない死の体であったのに、神は約束の子イサクを与えられたのです。そして預言者この神の力ある業を3節で次のように言い表します。
「主は(バビロニアによって破壊された)シオンを慰め、そのすべての廃墟を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園」とすると。子供を産む可能性のない死の体を、廃墟を、荒れ野を、荒地を、神はエデンの園、主の園とする、つまり墓が開かれるのです。「嘆きと悲しみは消え去り」、「喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」のです。この喜びは、苦痛のあとにくるよろこびではない。束縛のあとの自由、飢えのあとの満腹、別れのあとの出会いではない。それは、苦痛をはるか下にして舞うよろこびであり、苦痛を完成するのです(ルカ24:25−26)。「ただ、十字架についてだけ語ること。神が苦しんだのだ!」
このあと神は預言者をとおし、さらに〈わたし〉に目を注げ、耳を傾けよと語りかけます。「わたしは瞬く間に、わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ、わたしの腕は諸国の民を裁く」と。 異邦人に滅ぼされ、どこにも逃がれるすべのない暗黒の闇を生きる人々に、神は預言者を通して、「わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ、わたしの腕は諸国の民を裁く」と語られたのです。
この第二イザヤの力強く、勢いのある思想の中心に、神の義(裁き、正義、救い、腕)が立っているのです。この神の義は、かつてイスラエルをエジプトから救ったように、神は異邦人に報復されるというのではありません。「わたしの裁き(義)をすべての人の光として輝かす」のです。神の義は、アブラハムへの約束、イスラエル民族の救済史的視点から、すべての民への光として拡大されるのです。この神の裁き(義)が歴史となったのが十字架のキリストなのです! ヨハネはそれを次のように言い表しました。「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

Ⅲ.歴史となる神の言葉

十字架のキリストを信じる者は、人間の世界を覆う闇、敵意という隔ての壁が打ち壊され、平和を享受するのです。報復の連鎖を断ち切り、殺しの螺旋から降りるのです。言い換えれば、十字架のキリストを信じる者は、この地上に永続する都はなく、来るべき天の故郷を目指して生きるのです。第二イザヤはそれを次のように言い表しました。「天に向かって目を上げ、下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち、地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業(義)が絶えることはない。」
「わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業(義)が絶えることはない。」この第二イザヤの証言は頭抜けている、と言われます。第二イザヤが召命の時に聞いた天の声は、人間と神の言葉とを鋭く対比します。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべて野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」かつて神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れて、人を「生きる者」とされました(創世記2:7)。その人間に「主の風(人間を生きる者にした命の息)」が吹きつけると、草は枯れ、花はしぼむように、人間は塵に帰るのです。
なぜ人間は神の息によって生きる者になり、神の息によって消え去るのか。それは両者の間にある「罪」です。預言者は、主の風(神の息)によって草のように枯れる肉なる者の脆さ、儚さで罪に落ちた人間を描いたのです。そして、この罪に落ちた人間の脆さ、儚さに対して、「われわれの神の言葉は永遠に続く」(40:8)と語ったのです。
この簡潔な言葉によって第二イザヤは、人間的な歴史権力に対する別の力を示そうとしたのです。別の力とは、十字架のキリストです! 創造的に働きかける神の言葉、つまり肉となる言葉は十字架で完成のです。第二イザヤはその創造的言葉を次のように語ります。

天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、
地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、
種まくものに種を与え、
食べるものに糧を与える。
このように、わが口から出る言葉も、
むなしくわたしに帰らない。
わたしの喜ぶところのことをなし、
わたしが命じ送ったことを果たす。(55:10−11)。

第二イザヤは神から召しを受けた時、神の言葉を、「すべての肉」に対置して「とこしえに立つ」と語りました。自らの預言を締め括るここでは、神の言葉は天から地上へと降り、命じられたことを成し遂げ、また天に帰るというのです(47:15以下)。神の言葉はその端緒を上方からみちびきつつ、地上的なものを聖化して天にまで引き上げるのです。そのとき、「主に贖われた人々は帰って来て、喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき、喜びと楽しみを得、嘆きと悲しみは消え去る」(11)のです。
結びに、その端緒を上方からみちびきつつ、地上的なものを聖化して天にまで引き上げる神の言葉について語ったパウロの言葉を聞いて終わりたいと思います。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき。すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:6−11)。
初めにあった言、神と共にあった言、神であった言が肉となって、十字架に上げられたことで、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(イザヤ9:1)。のです。この光は、十字架のキリストをいま、ここでのこととして現在化する聖晩餐を守る教会において、今も、そして永久に輝き続けるのです。ハレルヤ!

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